昭和42年07月02日 特別奉修委員
あなた達によって毎日奉修があっております。それは合楽のまぁいうなら、組織作りとでも申しましょうか、しかも、その組織が合楽と云う事ではなくて、教団の上に道の上にもどうでも、合楽の信心をお役に立てて頂きたい。そういう念願に萌えての事であるとするならば、特別奉修委員の方達の週に一回のこうした奉修は、その家の中でいうならば、お父さんが外へ向かっての働きかける為の、信心をしておるなら、家内達が内の方はどうぞ私共に任せて下さい。
私がおりますからと言えるような、言わば合楽自体の信心の中に皆さんの信心の働きと言う物が入って行くおかげに当たるのじゃ無かろうかとこう思います。総代さん方達の言わば信心がどの様な素晴らしい、例えば組織が出来て働きが出来る様になっても、その原動力になるのは、総代の信心からという自覚の基に、毎日の奉修があっております。それに対照致しまして、例えば対照した訳じゃ無いけど、対照的にです。
ここへ特別奉修委員というのが新たに誕生して、そして何かにつけての、祈りをひとつにしておかげを頂いて行こうというのは、何処までもその内的なもの、内面的なものいうならば合楽のお広前の隅々に至るまでの、いわば微にいり細にわたって行き届いた事のでけていけれる、外にばかり働きかけても、内の方ががらんどうではいけません。そこんところの祈りを持たせて頂かなければ、ならんと思うので御座いますから。
昨日もあの月次祭の後に、特別奉修委員の方は、どうぞ明日は特別報修が御座いますからという、マイクを流しておりましたけれども、私はそん時に思うたんです。それは特別奉修委員の方達というのは、もう限定されたものであってはならないと思うんです。ですからそれは度々お参り出来なくても、お参りしとる人だけでもです、その精神とする所、その願いとする所の願いをひとつにして、祈れれる私は奉修委員というのは、そういう人達の集まりでなからなきゃならん。
だから矢張り十人よりも二十人、二十人よりも五十人と言う様にです、この奉修の祈念会と言う物がいよいよもっと根強い、熱を持った物になって行かなければならないと云う事で御座いますね。そこで私はその思うんですけれども、今朝も御祈念の後に原さん達夫婦にお話したんですけれども、もう椛目始まってこの方ですから、十七年になりますでしょう。これこそ毎日ああしてお参りが御座います。夫婦で夜は夜で、夜の御祈念に椛目の時代はやっぱ一日も欠かさずお参りになっておりました。
現在ではそれが出来られませんから、夫婦で話あわれましてから、とにかく朝の御祈念に、いわゆる先生のお出まし前に、おかげ頂こうと言う様な願いをモットーとして、その夫婦の御信心が出来ておられる訳なんですけれども、どちらかというとやっぱりおかあさんの信心に尻叩かれてと言う様な感じがあるんです。で原さんあのね、日にいっぺん参ると決めなさんなと私が言うんですよ。
もうお仕事の、今日はひまだと言う時には、家でゴロゴロしとるよりも、俺りゃちょっと合楽に出て来るぞ、言う様にしてです、もう別に、御用しに来る訳でも無いけれども、何とはなしに、先生の顔を見に来ると、いうごたる気持ちで、あの出ていらっしゃい。そう言う様にですね、お広前が何とはなしに、あの慕わしいもの、十何年間、御信心が続けられたけれども。
もう家内が言うけんで、家内に引かれて、善導寺参りで、その参らんならんけれん参ると、いっぺん参りゃよかごと、思うとるその考え方を捨ててですね、そういう何とはなし、合楽へ合楽へというその心が向かって、来る事を是から、おかげいただきなさらにゃいかんですね、というてお話致しましたように。堤清さんが頂いておられる様に、お広前に来たら、ちょうど風呂から上がった後の様な、気持ちだとこう言われる、素晴らしい事だと思うんですね。
もう一時ゆっくりしときたい。しかも次々とその耳の中に入って来る御理解を頂きながらですね、朝の御祈念を頂き、朝の御理解を頂いて有り難い。それでももう時間が来たけん、どうして帰るとは帰らんならんばってん、帰ろごつないごたる思いでですね、お広前と皆さんとの間と言う物が出来ていかなければいけない。特別な奉修委員だから。今日だけはもう行かにゃならんから、行って御祈念をする。と言ったような事であってはならない。それはひとつの弾みでは御座いましょう。
それはひとつの弾みでは御座います。努める事では御座いますけれども、人間はそう弾みばかりでは弾みきれませんもん。それが期限をきったものならいざ知らずですけれどもね、是がいついつまでもというのなら、弾みだけではいけません。例えば家庭の中でもそうでしょうが、お互いに努め合うと云う事には限定があります。姑と嫁の仲、親と子の仲だってそうなんです。
ですからもう努めなかったら、もう例えばなら姑と嫁との場合でもそうです。もう努め合うてそれこそもうくちもつごたる、味わいで行きよるごたるけれども、もう家の嫁がごげんしてあげんしてもう痒か所に手の届くごとしてくれますとこう言う。そしてこんだも痒か所があったっちゃ掻きもしなかったり、ほんなとこを掻けんごたると、ほんなもう家の嫁御がいっちょん気が付きませんでと云うてこうこうしゅうごたる。
はがいいわけです。痒い訳です。それがあのつとめ合うている時だけならいけれども、人間と言うのはそんなわけにはいかん事がある。場合によっちゃなごうならんなん時もあるし、そこんところをですね、私はあの努め合わんで済む信心を、頂きたいと思うですね、それでいて何とはなしにしゃんとしてと言う信心なんです。例えば私共家庭なんかをみて頂くと分かりますです。
もう実にもうろくそな事ですけれども、努め合うとりませんもん。一つもそれでいて何とはなしに、こう具合よう行きよると言う感じですもうこう努め合うとるという事じゃない、やる気のもんじゃありません。皆さんの信心でも奉修委員だから、努めんならんと言った様な事じゃなくて、今も申します様に、もう何とはなしにですね、もうここへ御祈念の後ですからゆっくりする。
したい、ゆっくりされる事が有り難いと言う様な気持ちなんです。帰ってあれもせんならん、これもせんならん、こう言う事はおよしなさい。そう言う事は置かにゃダメです。今朝から御理解を頂いておりますように、そりけんダラーッとなれと言うのじゃないです、理屈じゃない、けそけその信心じゃ決していいものは頂かれません。それはですね、本当に一心をたてればです、それはおかげ頂かれますよ。
今、内田さんからお届けが合ったんですけれども、椛目の篠原さんが毎朝朝の御祈念に参ってみえます。ですからもう朝の御祈念に参って、それでもまぁ私がまだ出て来ない、途中に参ってみえるらしいです。 何時もお届けがここに置いてある。それでたまたま四時に参って来た時に、そのまとめてお願いをなさる、一心でなからにゃ毎朝でも参ってこられはしません。それでひとつのやっぱ願いがある。
今年高校を卒業します、長男が就職のおかげを頂くと云う事で、学校から自分の願いとしては、西鉄と、その今度椛目の上に出来ますあの、ケチャップのね、カゴメケチャップのあちらに努めたいという訳なんです。大体そこが一番状況もいいし、一番いいんだけれど、そこはその自分の田畑を取られたとこだけが、優先的に入られるのであって、椛目のもんだからというては、入られないという訳なんです。
それでも二人だけは決っておると言う訳なんです、入れる様に同じ高校を今度卒業する友達が二人だけはもう決まっておる訳なんです。それでケチャップとしては二人しか入れないという。もう入るとが無いとこういう訳なんです。それであんた西鉄は好くまいけれども、西鉄の方に試験を受けじゃこて、と云う事になったけれども、どうも僕はその西鉄の車掌ば、せんならんけん好かんちいうげな。
そんなら他んとこなっとんあんたお願いして、西鉄が良か、お父さんも勤めておるとじゃけんというけれども、車掌にならにゃんとがいや。本人がどうでもいやでは他ん所にというお願いが御座いました。そしたら神様から私、頂きます事が、どうでもやっぱケチャップがいいぞと云う事でした。それでも先生こりゃもうどんこん仕様がありません。田畑をとられておる所が優先的にしかもそこに息子さんが二人おるからです、もう二人とられる事になっとるのだから。
けれども神様はケチャップの方が良いと仰るけんお願いだけしなさい。と私が言うに、今朝から参りましてですね、その通知がありました。もう二人だけ椛目から取ろうという事になったと言う。もう神様は見通しと言うてから、その内田さんにその御礼のお届けがあっとります。ですからそういう意味あいにおいてのおかげならですよ、ほら頂けるでしょうが、そげんして、所がそれだけではいかんとですもんね。
金光様の御信心はそれは成る程朝参りをして来てここに、お初穂だけお供えしといて、成る程それで朝参りだけは出来た。けれどもそんなけたたましいお参りでなくてもです、それこそ温泉にでも行ったごたるそれこそ、お風呂にでも入ったごたる気持ちでしかもその後までゆっくりしたごたる気持ちでですね、おかげを頂けれる様になってですおかげを本当に頂けるとしたら、もうこんな素晴らしい事は無いじゃないすか。
この前竹内先生がみえてから、もう秋永先生は、何時仕事しよんなさるか分からんですね、とこう言われるんです。それでもしおかげが受けられならこげな素晴らしい事は無いじゃないですか。なら遊んでさろきござるかというと、そのほとんどが椛目、椛目なんです。合楽合楽なんです。だからそういうおかげがもし頂けるならです、そういうおかげの頂ける道をお互いが頂かにゃいかんと云う事なんです。
そこでそんなら、あの努め合うと言う様な事では出来ませんと言う。こりゃ家庭だって同じ事。信心だってそうです。努めちからどんお勤めでどん参よったんじゃいけません。そこで今言う様に好きにならなきゃいけんという事。信心を好きにならにゃいけん。今日御祈念中に久富くにかさんが頂いておられる御教えもそうなんです。大坪麗子さんと言う人が落花生になって御座ると言う様な御理解を頂いた。勿論大坪麗子さんと言うのは、私の事でしょうね。
いわゆる麗しの人と言う事。私が何時も言う様に、私は日本一美しい私になりたい。もう限りない私になりたい。器量が山本富士子が一番なら、私は心の一番綺麗な私になりたい。と言うのが願いなんですから。大坪麗子さんと言う人を使われたんでしょうね。そしてその落花生と いうのは、今朝の御理解だと私が言うたんです。理屈じゃないです、落花生の事は今朝の御理解の様に蚊取線香じゃないけれども、同じ様な意味あいなんです。ありゃ馬鹿じゃけんという代名詞、ありゃ落花生じゃから。
けれども落花生の中にはちゃんと実が入っていると言う事。この頃正義さんが私を評して言うんですよ。親先生の素晴らしいとこは軟ぉく、硬たぁく生かしてあるとこですもんね。とこう言う訳なんです。 私は自分でそれを思います。もう私はどうしてこげんやおう生けれるじゃろかと思います。馬鹿んごと軟ぉいけます。硬とぉと思うと、どうしてこげん厳しい事に、すぐ変えられるじゃろかと思います。自分で自分でそん時ですね、変わって行く時の状態と言うものがですね、分かるんです。
もう自分の顔が変わって行きよるとが分かるんです。というてそのヒステリックになったりですね、その自分の気分の良か時だけは、具合ようやりよる。あれとは違う。いわゆる信心でいう、やおう、かとう行くと言う所なんです。私はどうも椛目ではですね、こう言う所をひとつ体得なさらなきゃいけんと思うです。 落花生の様に、ガラガラいよるごたるばってん、中にはちゃんとした実がはいっとるち云う事。
そういう私は信心をです、皆さんが、あの目指さなければいけない、そういう人達の結集した祈りこそがです、私は椛目のそれこそ端々まで、私は夕べ有り難いと思いました。どうせここが十二時位まではおりますから、自動車に乗って行かなければならない婦人の方達が皆んな、そのお花を生けたり、お掃除をしたり、一生懸命お掃除があっているんです。裏の方で、しかもなんかもう楽しゅうて応えんち、いうごたる風でしよんなさるです。本当に有り難いなぁ。美しくなるのは楽しいんですよね。又楽しいんです。
今あのあれば買っとりますもんね。あのこうこうやって拭くとを。だから皆さんがです、本当に例えばほんに是は楽しいんですよ。あれでお掃除をするなら美しゅうなって行くとが、それが只今申します様に、合楽におると言う事が、温泉に来とるごたる気持ち。しかも温泉の後にゆっくりしたいごたる、お風呂のあのゆっくりした、ごたるそういう気持ちがです、出来さして頂いてからこそ。
初めて私は本当の奉修委員の方達の、役目が果たされるのじゃなかろうか。勤めちからどん御祈念をしておると、言った様な事では、そりゃ修行にはなりましょう。その人のけども、それが本当の意味での、私はおかげにゃならんと思うんです。そこんところをです、ひとつおかげを頂いていって頂きたい。総代会の方達が椛目の、いや合楽の組織作りの為に、その原動力になる為の祈りを、毎朝捧げておられます様に、しかもそれは椛目の信心、合楽の信心がそのまま道のお役に立ちたい。
教団の力にもなりたい、と言うおかげを頂く為には、どうでもここに必要なのは、組織なんです。組織なしには出来ない。で、その組織をと言うのが、現在の幹部の方達のまぁ、一生懸命なっておられるとこなんです。いうなら外部に向かっての働きかけ、それが皆さんの言わば、奉修委員の方達の信心がです。
これが三十人か、五十人になって行く様なおかげを頂いてです、そういうしかも私が申しました様な、内容の力が結集されて、合楽の信心の端々に至るまでの例えば、廊下ひとつの上にでもです、光輝きする様な内容というものを、合楽のお広前の中に備えて行かなければならない。そういう大変な役目を皆さんが自覚されて、是からの奉修委員がいよいよおかげを蒙って行かれる様にお願いさして頂きました。
どうぞ。